昭和51年09月25日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 その身から打ち込んだ信心、しかも真の信心を目指しての信心、その身から打ち込んでの信心が出来るようなれば、必ず家族中の者が付いてくる様になると思います。その身から打ち込んでの信心、揺るぎのないいわば信心、又は揺るぎのないおかげを受けていくためには、その身から打ち込んでの信心、その身から打ち込んだ信心に、自分の周囲の者が皆付いて来る、そして始めて揺るぎのない信心といえ、また揺るぎのないおかげが約束されると思うです。
 これはまぁ私の信心を見て下さるが、大体一番おや分かりだと思うのです。私の方の家のやはり中心で、私がその身から打ち込んだ真の信心を、その当時の信心が真の信心とはいえませんけれども、目指すところはやはり真の信心とはという、信心を目指さしてもろうて、唯おかげに好転した信心では、着いて来なかったけれども、本当か本当でないか分からんにしても、真の信心を目指しての信心にならして頂きましたら、第一家内が一心に神様に向かうようになり、まぁ家族中信心しとりましたけども。
 父は反対はしませんけど、教会参拝言った様な事は滅多に致した事はない人でしたけれども、私の信心にまぁそれこそ誰に言われるでもなく、ちゃんと親教会にも参拝するようになり、とても母は熱心な信心を致してましたけれども、家族の者がいわば勢を揃えて参りました。まぁ私が一つの車を引くとするならば、家内が後ろから後押しをする。ある時んおお夢に母のお夢に当時の椛目に、どんどん大水が入ってきた。
 その大水が入ってきたところが大きな、そのう船が青梅を一杯積んでそのう私のいわば船頭で、それから家内と妹が後ろから後押しをして、それにあのう勝彦若先生がまだ小さかった時分ですけれども、その船の上にあのう日の丸のこう扇子を持ってから「がんばれ頑張れ」といいよるとこ、それを両親が前に綱を付けて、そしてそのう私の家に大みすと共に入ってくるところ、それを押し上げて家の中に入れたというお夢を頂いた。
 梅の実というば信心辛抱、信心辛抱の一生懸命のまぁ苦しいといえば、苦しいところ時分でしたけれども、その様にもう子供達までが一生懸命で、そこでですなら勢を揃えての信心が出来ると言う事は、やはり本気で誰かがしかも真の信心を目指して、信心をさせて頂く、それに皆んなが着いて来る、着いてこなければおられない、そこんところをっひとつまぁ目指さなければならない。教会だから当然の事といえば当然の事ですけれども、実をいうと教会でも肝心の息子さんが、後を継がないという教会が沢山あります。
 信心の程度度合は違ってもです、そこに方向というものが一つでなからなければならんという訳ですが、教会だから皆んなが勢を揃えて、信心しとるという事はないところすら沢山ございます。そういう意味でまぁ私の方ではおかげを頂いている。子供達もみんなお道の教師、長女だけが金光へ行っとりますからそれも出来ませんけれども、最近聞かせて頂いてるところによると、好きですから樂の上に一生懸命おかげを頂いて、まぁ一番最高の楽士としての試験も合格したと言った様な事を。
 これはまた聞きですけれども聞かせて頂いております。長男勝彦は皆さんご承知のように、私のいわば代行が出来ますように、まぁその事だけには打ち込んでくれております。二番目の光昭もおかげを頂いて、昨日もお届けしておりましたが、九州の丸少の事は勿論ですけれども、最近は御本部中央からどうでも、光昭でなからなければならない御用があるから、御用を頂いてくれないかという、昨日ご相談が御本部から来ております。
 三番目の幹三郎は「高校時代から僕は信心はするけれども、お道の教師にはならん」いうて自分で工業学校を選んで、勉強しておりましたがご承知のように、あぁ言う死ぬか生きるかと言う様な大病に合いました、そしてそのおかげを頂いて、此方はもう学校も進められましたけれども、学校の必要はない。僕はもう早速御本部へ上らせてもろうて、道の教師としておかげを頂きたい、帰らして頂いてその時点から。朝三時半にはこの人だけは私の言うならば、正当な私の信心を見習おうと一生懸命です。
 取り立ててこの人は特別な教会内で御用しておりませんけれども、もう私の本当に今の時点で手になり足になってくれるのはあお幹三郎です。親教会を受け持ってくれているのも幹三郎です、もう本当に無い命を助けて頂いた、そのご恩に感激してからのですからやっぱり違います。栄四郎もここの丸少のバンドの事だけは、もう本当に一生懸命です、もう一人一人の今度バンド員が三十名からになりました。
 その一人一人の事をお取次を頂いて、おかげをお役に立たなればならんという気持ちでしょう、そのそれが信心に覗われます。勿論それに付いております、子供達の親達もやはり一生懸命、そして御用に励んでくれます。なるほど合楽がおかげを頂くはずだと思うです、揺るぎがないです隙がないですもの、普通先生があげんいいなさるけれどもという者が居りませんもん。
 だんだんとおかげを頂いて、勢を揃えた信心をさして頂くようにならしてもらう、そこでならその身から打ち込んだの信心は、始め縁を頂くというかによらなければ立ち行かんという信心の、本当のところを目指さしてもろうて。その身から打ち込んだ信心をするならばです、神様が付いて来んという者でも、付いてこなければおられないように、仕組んで下さるという事でございます。
 ある時神様が士農工商が揃うたと、子供達の事を頂いた事があるんです、それぞれにいうならば、若先生が普通高校を出て、二番目の光昭が農業学校をでて、三番目の幹三郎が中途でしたけれども、工業学校を選ばしてもろうて、一番下の栄四郎が商業学校、始めからそんな計画してした訳ではないのですけれども。神様が士農工商が揃うたという事は。いうなればおかげをどれだけやっても漏れる事はないという事です。
 例えばもちっと大きくいうならば、士農工商が揃うたと言う事は、世界中の総氏子と言う事にも当て填るのです、士農商工人類の上にし農商工という者になったら、全部の人がその中に入ってくる訳です、その一つの小型の様なものが合楽で出来た揃うた。いうならば本当の意味においての、神様の手になる者神様の足になる者、口になる者と言う様です、神様の御神願御成就の事のために一家を挙げて、御用に打ち込む事が出来る様な、お繰り合わせに迄なって来ておるのです。
 やっぱり私自身が何十年間、ただおかげの信心の時には、付いてこなかったですれども、真の信心を目指さしてもろうて、「真の信心とは」という焦点を掲げての信心には、皆んなが協力してくれる、皆んながついてきてくれる、ひとつ願いに全力を注ぐ事が出来る。おかげを下さっても言うならば、そのうおかげを取り外すとか、漏らすという事のない、例えば陣容が整う、そこに始めて神様が限りない、おかげを下さる事になるのじゃないでしょうか。
 だから一生懸命参りよるということではなくて、やはり真の信心を目指さなければなりません。昨日私始めてここで研修を致します時に「今日の御理解はあれだけの事であって、研修すると言う様な事ではなかったように思うが、皆はどうだったか」という、いわば研修を出しました。だから昨日当りの信心はどう言う事かというと、「神の綱が切れたというが神からは切らぬ、氏子から切るな」と仰せられる事は、信心を止めてしまうと言う事ではない。そういう心掛けは神の綱を外した様なも同然だと言う事。
 そういう心掛けは。西岡先生がとにかく昨日の御理解は、『桃の花鯉する池やうす濁り』もうこの一句に尽きる事あるですねと確かにそうなんです。というてそれが信心の軸になるものではない、人間生身持っとるからどこにどういうお粗末ご無礼、それこそお忍び的な事にならなければ否あってよいのだと、けれども自分は陰でこういう事をしとるから、自分のおかげ頂き切らん、自分の事つまらんと思う心が神の綱を外すのも同然、おかげの頂きにくい。おかげの頂かれ無い心の状態を、昨日は教えて頂いたんです。
 昨日はその研修を終わらせて頂いて、御神前に立して頂いて今日は研修は研修になりませんでした、ところがあの丁度あのうオムレツですね、オムレツにケチャプマヨネーズそれににんにくを、刷っておろすところを頂いて、あのうそれの言うならソースですねを、あのうそのうオムレツに掛けておるところを頂きました。例えばオムレツそのものが信心の芯であるならば、昨日のは御理解はあれはソースのようなもんです、オムレツを本当に美味しく頂くコツのためのお話、芯ではなくて枝です。
 信心のまぁある意味での常識というか、何時もおかげが頂けれる状態にある事のために、こういう時にはこういう気持ちになると、おかげが受けられるぞという事なんです。昨日お食事の時に高橋さんがあのう昨日お話でしたね、私の扇子の向こうに曼襦紗華(まんじゅしゃげ)が咲いている、「いつになってもよかろうが」と私はいいましたら高橋さんはこんな事を言われる。
 先生あなたごたる風にですね、そりゃよかなちゅう思うとは10人の内2人ぐらいのもんですよち、後8人は分かりゃしませんがなとこう言うとです、あぁそうかなぁ私の話は10人のうち2人しか分かっとらんていと言うた事でした。確かに一つの感覚、特にほならならそりゃどういう意味だろうか美的感覚だとこういうですね。そうじゃやっぱそうかも知れん。けれども信心させて頂いておれば、信心の一つのセンスいうものが身に付いてくるんです。
 信心の感覚がだんだん深くなって、像系も深こうなってくるし感覚もやはりだんだん鋭くなってくるんです。だから昨日はもう研修の時に発表しませんでしたから、いま最近修行にここに見えとります早川さんが、まぁ一番素人ですから、素人の目には今日どう頂けたかと申しましたら、私しは今日のご理解頂きよったら、今日ご理解は高貴な人ばっかりの御理解じゃなかろうかと思うた、お忍びてなんて百姓やらそこの商売人やら、『お忍び』という言葉なんか使わんち。
 やっぱ殿様方か皇族方ちゅうなら、お忍びという言葉はピンとくるけれども、私共は場合は何時も、お忍びですからというふうなお話。だからまぁ庶民には縁のないような、まぁ御理解だったという訳じゃないけれども、だからそこんところをです、ただ私共日々の中にもです、はぁこげんな事人に聞かれちゃ恥ずかしかと言う様な事を、今日はいうならお忍びと言った様な事で、表現したけれども、そういうだからおかげは受けられんと言う事ではない。
 そこをいわば頂きますというか、御の字を付けるというか、いうならば昨日の御理解は、今日頂いている御理解は、信心の芯になる処の御理解。いうならば真の信心を目指すということなんですけど。いうならば周囲の者が付いて来る程、いや周囲の者が付いて来なければおられない程しの、信心を目指すということは、いよいよ真の信心を目指さなければならんと同時に、その真の信心にその身から打ち込んだ、信心でなからなければならないと言う事。
 そしてなら昨日当りの様な御理解は、いうならソース代わりのものだいうこと、そのそれも真の信心をいよいよ、真の信心たらしめるためというか、いよいよ有り難いおかげを頂ける事のための、御理解であったということになります。いよいよ明日はここの婦人部の方達が総決起されて、始めて婦人大会が開かれます。もちろん一年後の控えております記念祭を目指して、いよいよ合楽示現活動の母体ともならせて頂こうと、というのが願いの基に開かれます。
 会長さん始め、それぞれの役をなさっているならもう班長さん、とにかくもう15班から出来るそうですから、班長副班長だけでも30名からおられる訳です、そういう役をおおせつかった方建ちが、真剣にお取次を願うておられるという事でございます。いうならばですもう付け焼き刃ではいかん、本気にその気にならなければご用が出来んと、やっぱり自覚が出来て本気でお取次を願っておられる訳です。
 大勢でしかも掛け声で一度に力を揃えれば、持ちあがらない物でも持ち上がる事が出来る。そういう私はおかげの実りというものが、期待されてからの事でなからなければならないと思う。教会のいうならば婦人部の方達が、先だってからは壮年部の方達が、いうならば総決起の大会を持たれた、それが打って一丸となって人が助かる事のための働きに。参画させて頂こうという願い、今度の婦人部の方の大会も同じ事。
 ただ大会だけが盛会裡に終ればよいというものではなくて、そういう次の母体そしてそれが生み出すところの働きになってくる程しの事。これをいよいよもっていわばその中心になる、または幹部の方達がです、ういう願いを込めての大勢掛け声がそこに揃えられると、いうことにならなければならないと思います。ただ付け焼き刃的なもので後は、すうとすると言った様な事でなくて、そこからいよいよ信心の真が現わしていけれる。
 おかげを頂くためにもせめて幹部の方達だけでも、その身から打ち込んでの信心になって頂きたい。否ならなければせっかく打ち込んだ値打がない、そこでそれにから打ち込むということはどう言う事か。勿論その役一つでも「私が会長になろう、私が班長になろう」と自分から申し出た人はありますまい、いうならば人にいわれてですからやぁ私は、という人もあったろうけれども。いうならば誘われてからではあろうけれども、いよいよその役を務めなければならない事になってくる時。
 その身から打ち込まなければと、出来る事でないということ。そこにお取次を頂いてその身から打ち込んで、いうならば頭(ずう)から行く生き方を示されなければならない。そこに30名の人のいうならば信心がそこに出てる時にです、何百名の方がそれに付いてくる事でありましょうが。いうならば掛け声のなら音頭をとる人達だけでも、ひとつ掛け声が揃わなければいけないという風に思います。
 明日の婦人大会を前にして、今日ここの24節を頂きましたから、本当の意味に於いての教会での、勢を揃えた信心と言う事になると思いますから、銘々その身から打ち込んだ、勢を揃えた者にならなければならならないという事をまぁ聞いて頂くと同時に。私の大坪の家の勢を揃えての信心がどう言う様な、神乍ら働きを現わしているかという事を、ひとつ皆さんの信心で考えて頂いて、周囲の者が付いて来ないならば、まぁだまぁだその身から打ち込んでないんだ。
 いうなら打ち込んでいても真の信心を目指していないのだ、という風にまぁいろいろにここん処を頂かしてもろうて、先ずは私が真の信心に打ち込む事、その真の信心に周囲の者が付いて来なくてはおられない、否付いて来んといってもです神様が付いて来なければおられないような働きを、私も幹三郎の場合もそうです、居られないような働きを、示して下さる程しの信心、いわゆるその身から打ち込んでというのは、そういうおかげを頂けれる信心だと言う風に思います。
   どうぞ。